武智仁志のラヂオは友 アーカイブ - 建築系ラジオ
tag:architectural-radio.net,2010-02-02://2
2012-01-13T17:01:22Z
建築系ラジオポータルサイト
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「SDレビュー2011入選者によるラブな空間論」の感想です。
tag:architectural-radio.net,2012://2.8692
2012-01-15T12:00:00Z
2012-01-13T17:01:22Z
hitoshitakechi
本年もよろしくお願いいたします。
久しぶりの感想です。2011年は、仕事も震災の影響が大きい一年でした。間接的ではありますが仕事を通して復興のお手伝いをさせていただいたのかなあ。直接的ではないので、あまり実感はないですね・・・。
明日もあるとは限らない精神で生きたいところですが、根がノンキなようで。
今年は、平凡でもいいから幸せを感じられる毎日が過ごせますように。
それでは、2012年の感想一発目です。
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「北川さんの多視点のすすめ」
何も知らない僕が(?)、誰かに、「これはラブホです。」と言われ、「ああ、そうですか。で、どうやって使うのですか?」と聞くとしましょう。使い方を教わってからは、素直にそういう使い方しかしない。「いや、まてよ・・」と疑ってかかる事は、まずなかったでしょう。情報を与えられて、皆がそう使ってるから特になんの疑いも無く、そういうものなんだと「素通り」してしまいがちだと思うのです。常識なんて、なんともったいないコダワリだろうと。知らないあいだに、流されて生きているんだなあと、ふと考えちゃいました。
そういえば、僕は使い方を教わっていないはず・・。なのに、どうやって利用方法を知ったのだ?ここで、強引かもしれませんが、「視覚的無意識」に関する五十嵐さんの論考を見つけました。(こういうの大好きです。面白い。もっとちゃんと理解したいですね。)ロザリンド・E・クラウスが言っている言葉のようですが、ひとつの情報を繰り返し与えられ続けることで習慣化し、無意識としてすり込まれるのでしょうかね。
僕が住んでいる辺りは、東京とは違ってラブホは人里離れた場所にあるものでした。それが、いつの間にか街中に浸食といっては失礼かもしれませんが、存在しているようです。ラブホがやってきたのではなくて、街が広がっていったのかもしれませんね。詳しく調査したわけではないのですが、田畑の減少を見ているとそんな気がします。
普通に目にするようになったとはいえ、先入観があって、家族でラブホを利用するには抵抗があるかなと。「先入観」と標準的な誰かと自分を相対化してしまって・・、あ〜要するに、人の目が気になってしまいます。こちらのは、車でこっそり入って、こっそり出て行くので、なんだか悪事を働いているような気分にさせられます(笑)。意気地なし。
無批判的行動主義には、ほど遠い毎日です(笑)。
こうあるべきと思っている事に対して、スッと違う視点で見られたら生きていく上でもすごく便利なんでしょうね。うまくいかない時って、だいたい、まず間違いなく、思い込んでいたり、一部しか見えない場所から見ていたりしていますからね。ピカソの絵画のような見方が大切なんだなあと思いました。
「所有感と所有権」
これもまた、興味のあるお話でして、しかし、異性に対する所有何々は経験値的によくわからないですが、建築に置き換えると、まだ分かるような気がします。
法律上の敷地のお話。
お隣さんと親しくさせてもらっていますが、現在の親しみ度をふまえると、敷地境界にある色気のないブロック塀は取り払ってしまいたいとまで思っています。そうすれば、法律で認められた所有権によって区切られた、せまーい庭をもう少し広くできて、お互いの子供達をもっと自由に走らせることができるからです。(特に晩ご飯の準備中は、子供達に外で走り回ってもらう方がお母さんが助かります。)現状でも、庭でバーベキューや餅つきをやったりしてますので、ブロック塀さえ気にしなければ、お隣さんの庭には所有感を抱いています。そして、お向かいの広めのご近所さん家の庭も、季節によって様々な花が咲き、我々家族や、ご近所さんの目を楽しませて頂いてます。所有権はないのですが、とても所有感がありますね。ただ、お隣さんは借家ですので、お隣さんによってはブロック塀の主張が強く感じられるようになるでしょう。
所有権という言葉からは、「モノ」に対する自分の立ち位置を自他ともに「認めさせる」ためのルールや秩序というものを感じます。所有感という言葉からは、境界線がゆる〜く、あるようでないような自己満足でも成り立つ、個人的な価値観(共有もできます)で対象をみている感じを受けます。所有感を刺激する建築なり、敷地を工夫できれば都市や街はもっと過ごしやすい環境になるような気がします。建築は輪郭を持っているため、庭にある樹木のような所有感を持たせるためには、建築のスキマを共有できればいいのでしょうか。スキマというのは建築の間、庭や道路や建築の上空などのことですね。あるいは、屋内の一部かもしれません。時間帯によって使われていない空間とか。パブリックとプライベートみたいな話になると、やっぱり樹木の所有感とは違ってくるような・・。建築は輪郭を持っているが、空間を含んでいるので、この空間と建築のスキマをうまくリンクさせると・・・。あ〜、言葉では色々と妄想できるのですが、絵にしようとすると全然違う!「視覚的無意識」になるくらい何度も描き続けなければ答えのようなものは出てこないかぁ。
おっ。ここで、コロンブスの卵のような疑問が浮かんできました。
所有感をもっと広げるためには、前提としてご近所さん達に対して心許せる人間関係を築いていなければキツいですよね。建築の力で、ご近所さん達との人間関係を築いていけるものなのか、それとも、北川さんのラブホ話のようなソフト面の工夫でご近所さん達との人間関係を改善し、それに伴って建築のカタチを変えていく方が良いのか。住宅街に多い家屋は、一戸建てと言いますから、オモイっきり区切られてますからね。そもそも、建築家が建築を「作品」と読んでいること自体が都市を分断させているのかも・・。「ここまでは俺が考えたやつ。こっからあっちは他の誰かが考えたやつ。」って境界を主張したがってるってことですもんね。メーカーの家でも、敷地分譲でここはうちが売ってる領域ってやってますね。とは言え、都市計画とリンクするには並大抵ではない時間を要しそうです。この時間を惜しむか、そうでないか。
自分がコントロールしきれないスキマ領域をどう捉えられるかが所有感を左右するかも。DIYレベルで家をさわった経験で言うとですが(プっ!)、設計者がコントロールできない要素をデザインに組み込む可能性も面白いかもしれません。土木的でランドスケール的な樹木の成長を待つような設計手法です。一般的な人が、一生を左右する程の金額を家にかけて「買う」のではなくて、今持っているお金を使って、少しづつ完成に近づけるという工程を計画に組み込むのです。一人の人間の作品とは言えなくなります。芸術と言えるかどうかの視点で言うと難しいかもしれませんが。しかし、皆が日常的に家をつくる行為を身につけたら芸術的な出来映えになると思います。自分の家をつくるのですから、現在のような家づくりの素人のままではいけないような気がします。ここまでくると街のスキマ領域が活かされると思います。無計画でも芸術的な美意識を伴ってスキマが活用されるなんて、ある意味、アルゴリズミックな手法なんですかね?話が脱線したような、つながっているような・・。やっぱり、前田さんの「ビー玉」的意識をあらゆる人達がもてる事が大切な気がします。すみません、エラそうな事を言いました・・・。
家族単位や、一戸単位で区切られてしまうというのは、色々あるのでしょうけど、「異性」との関わり方も大きいのでしょう。あらゆる行為を大胆にご近所さん達に披露するわけにもいきません。かと言って、ガチガチに分断していくと結局は引きこもり家族が増えるばかりで・・・。コンテンツで話されていたクリスマス時期のロビー話は、所有感をコントロールできるヒントがあるような気がしました。
一室空間だけれども、建築の使い方が状況を生んで、仲間意識に影響を与える・・か。物理的には境界がなくて、カップルという分節ができています。しかし、北川さんは一歩踏み込んで、このカップルまでシャッフルしようと?(笑)。家族単位とか、近所単位に置き換えると、建築のありかたを変えられる視点だと思います。このコンテンツ内容と、『建築と日常 特集:建築の持ち主』(長島明夫 編集・発行)が妙に自分の中でリンクしました。(この本で紹介されている『生きられた家』多木浩二著 をネットで見つけました!読むのが楽しみです。)
北川さんのコンテンツは、色々と物議を醸し出す要素が強いかもしれませんが、よくよく聞いてみると表面的な会話の奥に本質が隠されているような気がしています。
ジェンダーのコンペも聞き直して、いろいろと考えてみようっと!
・関連項目
・北川啓介の無批判的行動主義
SDレビュー2011入選者によるラブな空間論 [1/3]
・北川啓介の無批判的行動主義
SDレビュー2011入選者によるラブな空間論 [2/3]
・北川啓介の無批判的行動主義
SDレビュー2011入選者によるラブな空間論 [3/3]
・第13回TEPCO快適住宅コンテスト提案部門
TEPCOインターカレッジデザイン選手権公開審査会 1 プレゼンテーション前編
・第13回TEPCO快適住宅コンテスト提案部門
TEPCOインターカレッジデザイン選手権公開審査会 2 プレゼンテーション後編
・視覚的無意識としての近代都市──三つの都市の展覧会をめぐって
五十嵐太郎
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「お金と建築」の感想です
tag:architectural-radio.net,2011://2.7242
2011-09-07T12:00:00Z
2011-09-06T16:07:13Z
hitoshitakechi
これは、「お金と○○」というように、○○の部分になんでも当てはまります。お金と何かを交換するということは、「何か」に価値があると判断して、それに対してお金の量が決まるのが本当のところだと思います。
この夏の体験で、見えないところにどうこだわるかが大切なんだなと思う出来事がありました。
この夏の体験・・・ドキドキ。
おっとー、皆さんが想像しているような事ではないですよー(笑)。
節電の夏ということで、1階の居間と洋間の間にある階段下の押入スペースの壁をぶち抜いたんです。ホコリと共に現れたのは、30×90の間柱です。床梁と土台に機能していない仕口がありました。2階の踊り場の下ということもあり、設計上は105角のしっかりとした柱が必要そうな雰囲気。釘の打ち損ないも、歪んだまま打ち込んでいるし、35年前の建て売りはまったくひどい。ジャッキアップして柱を交換しました。見えないところで手を抜いてしまう人の気持ちとは?何かがそうさせています。この例では、「お金と○○」のところに、「労働」という言葉が入りそうです。
(余談ですけど、長男がつい最近、ねずみばあさん(※1)がトイレに出た!といってパニクっていました。うちの奥さんが、「お父さんが押入をぶち抜いたから、ねずみばあさんは出ないよ。大丈夫。」と慰めてました。ばあさん、押入からトイレに移動した?)
もうひとつの事例。
テレビで、松山大学のサービス産業論の講義をK-1で活躍したニコラス・ペタスさんが行っていました。ペタスさんは、かつて2種類の道場を持っていて、一方は、純粋に格闘技を楽しめる自分の名前を冠した道場、もう一方は、自分の名前を付けないジムでした。どちらもやっている事は同じですが、純粋に格闘技を楽しむ道場は、商売として成り立ちにくいらしいです。なぜかというと、ペタスさんに憧れて入った生徒達とはいえ、練習が厳しいので、少数の生徒しか続けられないから。
一方、自分の名前を付けないでプロデユースしているジムは、自分で直接指導しなくても、選んだインストラクターが指導すれば商売としては成り立つそうです。ですから、事業を拡大しやすいですね。ペタスさんは、格闘技を商売にしたくなかったので、きつい練習が好きなメンバーがいる、自分の名前を付けた道場を続けることにしたそうです。好きな事を仕事にすると、お金と好きな事を天秤にかけざるを得ない時期が来るのですね。この例では、「お金と○○」のところに、「やりがい」という言葉が入りそうです。
おっちゃんから一言いわせていただくと、夢があるなら突き進め!ですね。ながながと書いて、結局は南さんのご意見に賛成です(笑)。夢を見て、実現して、現実を見て、それからなんとかすればいいと思いますね。っと、自分に言い聞かしてます(笑)。
ところで、8/21に愛媛県今治市で伊東豊雄さんと日比野克彦さんによるトークセッションがあり、参加してきました。(面白かった〜。)もちろん、最後は伊東さんのサイン会。それで、ふと思ったんです。伊東さんのサインが欲しいと思っている自分・・・。お会いしたこともなかったので最初から伊東さん自身に憧れる訳ではないんですね。伊東さんがつくる建築に憧れてから伊東さんに憧れるんです。伊東さんに握手と写真を求めて、はしゃぐ親子もいます。すごいな〜。作家というのは、建築家というのは、ファンが存在する職業なんですね。お金を稼いでいるだけの人だったら、僕はサインを求めないでしょう。
※1ねずみばあさん 絵本『おしいれのぼうけん』に登場する、ねずみ使いのおばあさん。押入の中に潜んでいて、園児達から恐れられている。
・関連項目
テーマ討議 お金と建築]]>
震災で思う事
tag:architectural-radio.net,2011://2.7214
2011-06-30T12:00:00Z
2011-09-04T16:34:02Z
hitoshitakechi
プレートがぶつかり合う日本において、災害に気をつかえない生き方はかなり危険だと認識させられた今回の震災。
かつて、同じ地に津波が来てつらい目にあったのに、なぜ同じ土地に人々が住まなくてはならなかったのかという疑問があります。人間は、地球上で賢い動物と思い込んでいましたが、争い事の結果や、自然災害に対する経験を生かしきれない歴史をみると、そうでもないもんだと感じずにはいられません。
なにが原因なんだろう。
やっぱり、現代人の価値観が狂ってきているのでしょうか。すべては「お金」です。いや、大事な存在だし、ブツブツ交換を立替えてくれる便利なしくみなのは理解できます。でも、ほとんどの人は、これをより多く得るために、寝る間も惜しんで働いています。電気は便利です。暗くなっても働けますから。各個人の意識はそうではないと言う人もいるでしょう。でも、企業の基本は、儲ける事。前年度と比べていくら儲けたかに腐心しています。やっぱり、このしくみに取り憑かれています。従業員がより良い生活を送れるようにと呪文を唱えながら。
いや待てよ、と思わされたのが、災害の度に建てられる「仮設住宅」。早ければいいんです。お金がかからないから。でも、仮設住宅に入っている自分を想像すると、状況がよくなっていると諸手を挙げて喜べないと思います。家を失った野宿同然の環境と、見慣れた生活環境に似た仮設住宅を比べると、そりゃあ、外からみると改善しているように見えます。
でも、それは、支援者側が一段落つけるための手段に過ぎない。俺はやったよ、良いことをしたよと言い聞かせるために。仮設住宅に住む事になった方たちは、ふるさとを失い、家族も失い、住む家や仕事がないから、またローンを組んであくせくと働かざるを得ない。国は助けると言いますが、結果的に税金をあげる方法しか思いつかない。いや、国も大変な事は分かります。助け合わなければ良くならないことも分かります。
言いたい事は、お金が基準になって、安易な手段をとりやすい体質になっているような気がするんです。日本は。
住まいって、そもそも、他人に任せっきりで建てていいもんなのかなあと思います。建築を目指している僕が言うのもなんですが、住宅メーカーや、建築家に自分の住まいを任せっきりでいいのだろうかと。しかも、ローンというお金を吸い取る掃除機のようなしくみで当たり前に購入をします。で、ローンを返し終わる頃には、体は老いで動けなくなり、家もボロボロ。他人に建ててもらったから、なにをどうさわれば家を修理できるかが分からない。で、また専門家に頼んでお金を払う。でも、働ける年齢を過ぎているから、まず、建て替えなどは難しかったりします。どう考えても、お金にいいように操られているとしか思えません。
じゃあ、どうすれば良いか。
これから書く事は、常識的な頭の良い方達から鼻で笑われるかもしれませんが、とにかく、思ったことを書いてみます。
かつての日本の主な住まいであった、地域の人々の技術が集結した民家。民家の作り方は、電気の消費を見直そうとしている日本のこれからの住まいに大きなヒントを与えてくれると思います。日本の環境にあった工夫の積み重ねは継承して、それを続けることでさらにより良い家になります。お金を出すのではなくて、近所の人どうしがそれぞれの知識を持ち寄って、お互い様で文字通り家をつくるのです。
今では、近所にそんなおじさん達いないでしょ。そうなんですよね。しかも、歴史的に継承していないから、もう知識がゼロになってしまっています。無理矢理やっても日曜大工の延長になってしまう。そこで、教育から見直そうという話が出てきます。人が生きていくのに住まいは、必ず必要です。なのに、専門家ではない人(ほとんどの人)は、住まいに関する知識がありません。これって、本当は異常な事ですよ。必要なのですよ、住まいは。なのに知識が一切無い。ビーバーだって、自分で家を作れます。賢すぎる人間は、効率(お金)を求めて、住まいさえも他人に委ねてしまった。
災害国日本では、建築に関する知識を義務教育から叩き込んでおく必要があると思います。たとえ、既存の建築家という職業がなくなるとしても。(家族単位の住まいは扱わなくなるというだけだと思いますが。)家をつくるのに、お金を払うのではなくて、自分が作った野菜をお裾分けするかのように、家づくりを手伝うという環境。車の免許を当たり前に取るように、建築関係の免許をとる環境。これが実現すれば、じれったい市役所の専門家の都市計画を待つ事無く、自分達で計画が立てられるし、仮設という突貫工事の手順を踏む事無く迅速に動けるようになるのではないかと思います。誤解を恐れずに言えば、本当は、自分を守れるのは自分達しかいないです。
日本国憲法第25条で、『すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。』と言っています。でも、実際は、ある程度は補助するけど、もう一度ローン組んで家を買い直してねと言っています。根本的な生活を営むのに必要な家を自分達の手でつくりあげることが出来なくなっている国民は、実は、お金を生み出す道具と化しているかのようです。家電頼みの生活もそうです。結局は、高気密、高断熱と繰り返し脳裏にすり込まれていて、電気が絶対必要な生活の仕方が当たり前だと植え付けられているのです。少し前まで、冷蔵庫さえも電気レスでしたからね。地震国日本は、たった一つの手段を持つのではなく、あらゆる他の手段も用意しておくべきでしょう。
被災地の方は、市や県の計画を待つのはじれったくて、自力で危険な地域に店を再会させた方も多くいると、報道で聞きました。知識があれば、正確な判断と行動力が伴うのではないか、近所で助け合える環境になりやすいのではないかと考えます。自分達で行動ができるようになれば、家の再ローン問題と、無職状態の問題がある程度改善されると思います。しかも、消滅しつつある近所付き合いも、普段から協力し合うことで復活します。やっぱりおかしいんですよ、仕事に忙殺されて、家族と一緒にいられなかったり、ご近所とも付き合いができないなんて。電気不足問題も、「夜は暗いから仕事はできない」という当たり前の日常になれば、自殺者の問題も減るかもしれません。これら、書いていることは、大げさに希望的観測に寄っていっているかもしれません。でも、お金の価値以外の価値を認めて、実践できる社会が実現できたら、なんだか幸せそうな気がするのです。いい歳のおっさんがこんな事を考えるのは、あまいですか?
考えるだけでは、ただの思考ゲームでしかないですが、いつの日か行動を起こせるよう様々な準備をすることは大切ではないかと思います。お金と本質を、まずは分けて考えてみるとよりよい答えが返ってくるかもしれませんね。
皆さんは、今回の震災でどのような事を考えられましたか?
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「東日本大震災を、現在進行形で考える」の感想です。
tag:architectural-radio.net,2011://2.5549
2011-03-24T12:00:00Z
2011-06-06T15:14:34Z
hitoshitakechi
本当に驚くべき事実にただ呆然としています。僕が経験した地震で最大のものは、2001年の芸予地震です。松山市で震度5強、M6.7。発生は15時27分で、夜の飲み会に備えて、自分の部屋にいました。当時90cmの水槽を部屋に置いていましたが、水が大量にあふれました。とっさに部屋の真ん中でバランスを取れました・・。
今回は芸予地震並みの規模のものが連続でおき、津波の被害も大で、あってはならない原発の事故までも。3/11から、2週間が経ちました。今だに余震もあり、原発もあまりよくない状況が続いている中で、今の僕にできることは、募金をすることくらいしか出来ません。
愛媛にも原発があり、MOX燃料を、やはり3号機で使用しています。事故が起こってからしか本当に危機感を持てない自分に呆れます。
僕が住んでいる松山でも、一部のスタンドでガソリン給油の規制が始まり、なんと、インスタント食品やミネラルウォータ、乾電池なども品薄の状態となっているようです。(中国にも、買い占めは飛び火しているそうです。)先週はそういう雰囲気はなかったのですが、原発事故の対応が長引いているのと、ついついテレビを長く見てしまっているからでしょう。愛媛でも、「共感疲労」に陥っている人がいるそうです。被災していない人間が疲弊している場合じゃないです。品薄の原因は、被災地優先で供給されているためで、一時的らしいのですが、もし買いだめしている結果ならば残念です。日本人は同じ民族で集まっているせいか、集団心理が強いのですね。
水は水道水が使えるし、インスタント食品は無理に食べなくても済むし、僕の場合は自転車で通勤しているのでガソリンも殆ど不要です。身の回りのできることからやっていこうと思います。当たり前の日常って、実は貴重ですね。ついつい明日があると思って過ごしてしまっています。
ラジオでは、地震の影響よりも津波と原発の話題が多くでました。昼間の災害ということで、多くの映像が撮られ、津波の無情なパワーを見せつけられました。愛媛新聞によると、大津波警報発表の3分前に小規模な津波第1波を宮城県・牡鹿半島周辺で観測していたようです。3メートル以上の最大波がきたのはその30〜40分後でした。ハードウェアは駄目でも、人間の命は助かる時間だったかもしれませんね。ただ、警告を受けて、パニックを避けられるかどうかは分かりません。
驚愕したのが、岩手県の宮古市田老地区の防潮堤。住民の皆さんから絶大な信頼を得ていた「万里の長城」の異名をもつ高さ10m、総延長2400mの防潮堤を、大津波は粉々に破壊したそうです。約50年前に完成していたので、塩害による老朽化も多少は原因としてあったかもしれません。防潮堤の中身は土壌でしょうし。本当に恐ろしいパワーです・・。
こういった事実を見ていくと、常識的な対処で新たに建て直しても、また何十年後かに津波が起こるかもしれません。事実、常識や想定を越えた災害が発生してしまいました。役所の建物は、海抜何m以上に建設するという規則ができるかもしれません。
僕は建築を学んでいるので、つい建築の力のみで解決できると信じたくなりますが、彦坂さんがおっしゃるように事実を事実と認識して、対応するほうがより確実だと思いました。携帯やラジオ、テレビよりも、ツイッターが役に立ったように、複合的な手段を確保しておかないと、突然の事態に対処できないですね・・。
ラジオでの皆さんの会話を聞いていて、頭に浮かんだのがテトラポット。田老地区の防潮堤は堅牢な「面」で波を遮る発想でしたが、テトラポットのように「ある程度」遮る発想のほうが良いのかなと思います。波を砕く手法ですね。そして、海岸で砕くばかりではなく、数km先の海上にも配置するのです。水深があると大変ですね。専門知識でもって語っていないので、知識のある方に笑われるかもしれませんが。
陸地に侵入してきた水は、住戸を取り巻く道路の下が水路になっていて、ある程度、水路に水が流れ込んで力を弱める作戦。そして、建築はあえて、木造。逆に浮力を利用して、基礎との関係は、切り離しやすいものにします。電柱などの危険因子は地中化。車は住宅街には置かず、歩行と路面電車で移動するようにすると、流されてもぶつかるものが少なくできるかもしれません。複合的に建築と土木を組み合わせないと難しい気が今はしています。都市規模でのデザインです。基礎部分はテトラポットのようなものを敷き詰めておくと引き潮を砕いてくれるかも・・。躯体は結局、船みたいな建築になるのでしょうか。
いやいやいや、なかなか解決策を見つけるのは至難の技です。構造形式、形態の話以外のところでもデザインの方法はないかという松田さんのお話。建築的な内容のみで考えず、様々な可能性を拾い上げて解決していくしかなさそうですね。
それにしても、ツイッターの活躍ぶりはすごいですね。
早く問題が解決できるように、行動していければなと思います。
僕はこれからの日本に希望をもって生きます。
・関連項目
東日本大震災を、現在進行形で考える [1/3]──地震と建築をめぐって
東日本大震災を、現在進行形で考える [2/3]──原発とアートをめぐって
東日本大震災を、現在進行形で考える [3/3]──津波とデザインをめぐって
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コメント:「通信で建築を学ぶこと」の感想です -[radio]-
tag:architectural-radio.net,2011://2.5522
2011-03-03T12:00:00Z
2011-06-06T15:15:40Z
hitoshitakechi
あっ、お忘れでしょうか。「あんた誰?」と言われても仕方が無いほどご無沙汰しております。スクーリングは、2007年を最後に受講していないので、あれからはや4年目になります・・。トータルでいと・・やっやばい、後がないっ!丁度、岸川先生が着任された時期に3年次の課題にチャレンジしていた時期です。ぐおおお〜、なにやってんの?僕は。
建築学生の約4/5が卒業できていないということで、働きながら勉強する無謀さを実感しております。その他大勢の中に入っているのですね・・・。あっ、でも楽しいんですよ。模型作り、図面作成、アイデアを発見する一連の作業は楽しすぎます。
私事で恐縮ですが、僕の入学動機は、企業に安月給でこき使われて(会社の人見てないよね・・・。)シワシワになったら捨てられる将来に不安を感じたのと、給料が良い職種を31歳の時にネットでしらべたら建築士がヒットしたからです。(あれ?入学志望時の作文と違うかも・・。不純な動機ですね。でも、スクーリングの時にある先生から「建築家はもうからんぞ」と言われました。そ、そんな〜。建築士と建築家の違い?)ラジオに出演された優秀な卒業生の皆さんのようなドラマチックな野望はありませんでした。安藤忠雄さんすら知らなかったんです。でも、やっているうちに楽しくてハマったのですが、続けられるかどうかは、個人の強固な意思はもちろんですが、やっぱり一緒に頑張っていける仲間でしょう。スクーリングに行かなければ、この重要な機動力の源が薄れてしまいます。建築系ラジオの皆さんに、まだ相手にしていただいているので続いているような状況です。こう見えても、学校にも建築系ラジオにも感謝しています。歳をとると新しい事にチャレンジすることが難しいと思い込んでしまう日本の世の中で、そうではないよと手を差し伸べていただいています。ただ、自分のコントロールが悪くて、その手をなかなかつかめないのですが(苦笑)。
全国から老若男女が集う大学で学ばせていただいていますと、「なにかを始めるのに遅いということはない」と改めて思う次第です。皆さん、もうパワフルでして、僕なんかは亀の競歩ぐらいのスピードですが、同期で一緒に勉強させていただいた一級建築士の方は、1年で50数単位を取得しました。すごすぎます。すでに資格を持っておられるのに、新たに学び直そうという姿勢に、また刺激を受けます。
アメリカからスクーリングに来られている日本人の方もいまして、日本で仕事があるタイミングの時に受けているそうです。アメリカにはなかなかこういった学校はないそうです。入学理由は不明ですが、AAスクールですでに学ばれた方もいまして、最初から突出していました。もちろん、さっさと卒業されて、しかも最優秀賞を取っています。世の中には無名や有名を問わず、すごい人がたくさんいて、憧れるばかりです。
ただ、自分が勝手に陥った状況を悲観的にみて終わるのではなく、遠回りを楽しめる胆力(?)が養われているのかなあ、などとのんきなことを考えたりもします。ゆっくり学んでいると、僕の大学生活の裏テーマは、人間的に成長するのが目的だったのかなと思うようになりました。赤面症でも人前でプレゼンするという、相手に伝える能力が少しづつ鍛えられているような気がします。目先の目標も大切ですが、気が付かないうちに学んでいる成果が表れているのかも。あれ?、妻が呆れています・・。怒りを通り越してる・・・。
おっ、大学院って実務経験に沿って学べるんですね。この歳になると、雇ってはもらえないかもしれないので、いきなり独立も夢ではない?うお〜、厳しそう〜!いばらの道しか見えなくなってきてますが、昨日買った『ブリコラージュの伝言』を読んで、頑張ろうっと。
先生方、またお会いできるように頑張りたいと思います。よろしくお願いいたします!
・関連項目
建築系ラジオインタビュー
通信で建築を学ぶこと [1/2]──京都造形芸術大学通信教育部建築デザインコース教員インタビュー
建築系ラジオインタビュー
通信で建築を学ぶこと [2/2]──京都造形芸術大学で通信教育を受けた学生が、その経験を語る
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コメント:「44A: 宮城「建築系しりとり」選手権」の感想です。 -[Lab]-
tag:architectural-radio.net,2011://2.4170
2011-01-26T12:00:00Z
2011-06-06T15:16:06Z
hitoshitakechi
山崎泰寛さんのインタビュー(「建築外からのモチベーション 保健室から建築へ」)でも、建築の教育について語っておられましたが、このしりとりは教育に使えるんではないでしょうか。
大人には、知識のバロメーターとして使えるし、子供でも楽しめますね。よく、テレビであるじゃないですか、小学生なのに日本全国の鉄道の路線を順番に言える子。または、世界の国旗や首都を全て言い当てる子。大人も感心する程の知識量ですよね。
ただ、問題は、子供が建築に興味を持てるか?です。ちなみに平凡なうちの子は、某テレビ局のリフォーム番組の破壊シーンは大好きなのですが、奇麗になったお家には興味がないようです(笑)。興味がないと言っても現実の体験として、冷やかし(?)で内覧会にいっしょに行くとすごく喜ぶんです。体験を伴わない映像で見るとつまらないようです。
かっこいいお家か、かわいいお家なら、映像だけでも子供心にズキューン!と響くはず。どんなお家が好きでしょう。そういうお家って、多分、分かりやすいフォームを持っているんでしょうね。ロボットみたいとか、ハートマークみたいとか。
うーん、考えてみると、ロボットはロボットだし、ハートマークは、ハートだし、電車も電車だし、他の何かに例えて表現する必要はない存在ですね。お家も、いわゆる家型であれば、何かに例えて表現する必要もないですが、そうではない場合は、何かを参照して語りたくなります。「何々みたい〜」って。
建築らしいフォームってありますかね。
だれでも、ピンっ!とくるフォームがある方が良いのか、そうではないのか・・・。今、定着している家型が、定着する前って、やっぱりアイコン的な姿として認識されていたのでしょうか。自動車は機能美であの形が定着しているし、バイクもしかり。雨を凌ぐ形として、家型は合理的ですよね。自動車もバイクも使う人と「一緒に移動する」という感情を持たせますね。ガンダムの人気も、人型であるので「手足を機能的に強化したような」感覚があって感情移入しやすいのではないかと思います。自分の分身のような。モビルスーツって言いますもんね。対して今の建築は、建築の内部を移動しているので、他者的な感覚が強くて、自分の体の一部のような感覚が少ないですね。
他人のような感覚を住まいに抱いてしまうのは、住む人がどれだけ建築をつくる時に関われたかが影響ある気がします。頭だけで考えた行動とくらべると、自分の手から得た情報を元に行動した方が感覚を総動員しやすく、思い入れが深くなりますよね。
住宅の言葉のイメージと「建築」という言葉へのイメージって、なんだか違うような気がします。住宅や住居というと、一般的にも身近な存在として意識しやすいのですが、建築という言葉だと遠い世界の存在とか、気難しい存在というイメージを僕は漠然と持っていました。建築と住宅は違うと言う方もいますが、集合体として見ると建築なのでしょうか。集合体でみると「都市」という呼び方になりますか?もし、自分がコントロールできる許容範囲の大きさや周辺に与える影響度が基準であれば、住宅も十分建築と言えると思います。個体で見ずに集合体で見ると意識が違ってきますかね。新築にしても様々な部品を組み立てて全体ができていますから、住宅も地域や都市の部品でしょうか。
建築への関心と、ロボットや車への興味度合いが違うのは、世の中に浸透したコレクター魂をくすぐるフォームが思い浮かぶかどうかに左右されているように思います。この辺の感覚が、建築に対する一般的な興味との関連性があるような気がします。
だいぶ脱線してしまいました。
子供達がもし、コルビュジェだの、篠原一男だのと、しりとり遊びを始めたら、すごいですよ、多分。決勝戦ともなると、テニスのウィンブルドン選手権のように、周りの大人達は、一斉に左の子を見たり、右の子を見たりで、激しいリターンの応酬が展開されそうですね(笑)。こうして建築界は、安泰だあ!
・関連項目
44A: 宮城「建築系しりとり」選手権
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コメント:「馬場正尊『「新しい郊外」の家』(太田出版)」の感想です -[r4]-
tag:architectural-radio.net,2011://2.3298
2011-01-19T13:00:00Z
2011-06-06T15:16:34Z
hitoshitakechi
早速、帯を開きました。
著者の馬場さんが将来描いている房総のにぎわいが描かれていて、馬場さんの野望が伝わりました(笑)。現在の電子媒体では味わえない本の楽しみ方ですね。馬場さんのワクワク感が伝わるようです。
文章も堅苦しくなく、知らなかったことは素直に表現されていて、読者の共感を得やすいと思います。一気に読めました。「気が付いてしまった。」という表現が先取り感を強調していて、なぜか、「先にやられた!」と思ってしまいます。でも、行動力が違い過ぎるので思うだけですけど。
プランを説明するために、赤裸裸な自分の半生の記録を解説するところを読んで、馬場さんは、建築家の中の建築家だな〜!と思いました。家族の歴史を空間にするという意気込みが、これから住居を持とうという人に伝わりそうで、読者は皆、馬場さんに設計を依頼するんじゃないかと思いました。
建築家が設計した物件への支払い方法も書かれていて、勉強になりました。なるほど、資金繰りでつまずいてほとんどの人がメーカーに走るわけですね。建築を勉強してるから思うんでしょうけど、なぜ、皆はつまらないメーカーの家を購入するのだろうと不思議でした。資金に関する悩みが、実は住む人にとっては大きな問題ですね。銀行に聞くと、3千万円のフルローンを組む人も少なくないらしいです。そうなると、メーカー住宅になってしまいますね。
「住宅金融支援機構」は支援してくれないし、「住宅ローン減税」も、耐火建築物でない建物は築20年以内の物件か.購入2年以内の耐震基準適合証明書または、耐震等級が等級1〜3であることを証明している住宅性能評価書が必要なんですよね。耐火建築物は25年以内。木造とそれ以外の5年の差も、意味不明ですけど中古物件の購入は減税対象にならないんです・・・。世の中は、購入者が損するしくみになっていますね。まあ、金がないのに買う行為が本当は怖いことなんですけど。
そのうち、馬場さんは銀行も始めてしまうのではないかと思う程に、「なにかやる人」という印象を持ちました。馬場さんの新しい住まい方の提案は、多くの都会人に受け入れられると断言できます。僕も都会に住んでいたら、馬場さんにお世話になっていると思います。
(思ひ出のコメントー初出:2009.4.9)
・関連項目
南洋堂店主荒田哲史の「今月の一押し本!」
馬場正尊『「新しい郊外」の家』(太田出版)]]>
ちょっとひといき:建築系ラジオ「テン年代の建築、私はこう考える」アンケートでのコメントです。
tag:architectural-radio.net,2011://2.4169
2011-01-16T12:00:00Z
2011-06-06T15:17:00Z
hitoshitakechi
ある自動車のテレビコマーシャルに衝撃を受けました。そのセリフが、「家にいるより、家族だね。」ですよ。住宅内では家族関係が営まれていないということに共感できる人達が多くいるということです。世の中にアンテナを張り巡らせている車会社の経営陣は皆の認識が一致して、このフレーズでいけると判断したのですから。
プライベートな空間を大切にしすぎて、それに対する後付けで、クーラーなどの住宅内気候をつくり出す装置が、もてはやされています。この装置頼みの精神を変えないと「つながる」というキーワードに行き着けないと思います。築33年の中古住宅を購入して、夏の汗をぬぐうそよ風や、冬のすきま風を感じながら生活していると、日本の四季や、気候に旬があることに気づきます(笑)。梅雨時期のキス、秋の焼きサンマ、冬のブリの照り焼きなど、旬の魚は美味しいですよね。旬の野菜や果物も、口に入れたとたんに幸せが広がります(笑)。そんな感じで、外の四季を「見る」だけではなくて、「体感」して楽しんでもいいんじゃないかなと思うようになりました。
ただ、僕が住んでいる松山の気候だからこそですけど・・。
建築内の気候にアバウトになることによって、境界の質が変えられると思います。「つながる」というキーワードは、境界がどうなっているかが大きいのですが、ライザー+ウメモトさんのメッシュ構造とか、中村竜治さんの「すかすかなもの」に可能性を感じます。線の集積によってつくられている面をそのまま境界につかえば、ガラスに頼らない、新しい境界のありかたも可能ではないでしょうか。ただ、暑さ寒さに耐えろということではなくて、境界(天井・床・壁)を見直す事で次の世代の建築が見えてくるような気がします。
そうやって新しい境界の答が出たとき、1戸建て住宅や集合住宅というジャンルを超えて、ついでに敷地境界線も超えて、新しく「つながる」建築ができてくると思っています。既存の住宅の境界を変えてつなげると新築よりも可能性があるかもしれません。結局、人は一人では絶対に生きて行けませんからね。誰かと、つながっていたいです。
(思ひ出のコメントー初出:2010.3.5) ]]>
ちょっとひといき:「ラヂオは友」タイトルのコンセプトです。
tag:architectural-radio.net,2011://2.4171
2011-01-02T13:00:00Z
2011-06-06T15:17:29Z
hitoshitakechi
本年も、楽しく建築を学べるよう、よろしくお願いいたします。
新年、一発目は、己に克つ!というテーマで自分を見つめ直してみようと思います。(新年早々、堅い・・。)建築系ラジオのみなさんのご好意によって、本コーナーがスタートし、今日までなんとか続けてこれたのですが、ここらで、このコーナーの原点に、もう一度立ってみようと思います。
■ラジオの親近感
さて、建築学生たるもの、タイトルは表現の中身を表していないとマズいです。プレゼンしにくいです。そこで、今回は、どうしてこういうタイトルになったかを誰も聞いてくれないので、勝手に語りたいと思います。要するに、僕の息抜きです(笑)。
松田達さんと大西麻貴さんは、僕が通っている大学の先生です。(お会いしたことはないのです・・。)ですから、先生とお呼びしなければなりませんが、学校の外では、先生と呼ばれるのがあまり好きではないのではないかなと思います。様々な人にインタビューして、ラジオを一般の人達にも発信するには、先生だとやりづらいのではと。まあ僕の個人的な価値感を押し付けていると言われればそれまでなんですけどね。ですから、このコーナーでは、何々先生とお呼びしたいのをグッと我慢して、普通に何々さんと、お呼びしています。その方が、親近感がありますもんね。
親近感といえば、ラジオって、テレビと比べてずーっと自分の生活に密着している感じってありませんか?いつかの配信で確か杉浦さんがおっしゃっていましたけど、ラジオって「ながら聞き」ができるんです。
動物に例えると、テレビが犬で、ラジオが猫とでも言えますかね?
あっ、違う。
テレビを見ている僕は犬で、ラジオを聞いている僕は猫ですね。テレビを見ている時は、何から何までつきっきりで、他にやる事があってもほったらかして忠誠を示して見ています。対してラジオは、やりたいことをメインにやって、ついでに聞いてしまおうという欲張りな態度でいられます。お得感と「気ままさ」がラジオの良いところでしょうか。
■見えないのに見えている!?
映像がないということがながら聞きができるポイントなんですが、「声」ってすごいですね。声を聞くと、声優さんではないかぎり、まず性別が分かります。精度は悪いですがだいたいの年齢も分かりますね。あと、顔が浮かんでくるんです。不思議ですよねー。もちろんお会いしたこともない人でも顔が浮かんできますよね。
声から想像する顔って十人十色で、皆さんが想像した、それぞれの顔を見てみたいものです。
で、その中の顔から好みのものを選んで、自分の顔にできるシステム(笑)。皆に好かれたい人は、一番多い系統の顔を選ぶとか、モテたい人は男前や美女を選べる。いいですねー。福山雅治さんの顔の人生って、どうなんでしょうか?モテてモテて、もううんざり!って人生なのでしょうか?(笑)いや〜、こんなアホなことが現実になったら、男は皆、福山雅治さんだらけで逆に気持ちわるかったりして!もう、こうなると、見た目のファサードなんかは重要ではなくて、世の中の女の子達は男の中身を重視するようになってくれるかもっ。
■新?住宅論
おお〜、日本の住宅状況は、もしかして男前だらけなんじゃないでしょうか。すごいことに気が付きました!高気密・高断熱でプライベート空間を大切にした至れり尽くせりの住宅を皆が求めていて、インテリアが人気ですもんね。
時代によっては、男前の顔は違っているんですよね。口ひげが長い方がカッコいいとか。男前の基準も、実は多数決なんでしょうね。より多くの人が男前だと思っている顔が男前だと、皆思っているでしょう?
いやまて、そうじゃないと。
男前はこうだ!と声高らかに言う変った人間が増えれば、ある時、男前の定義が変っていると。
最近では、中性的な雰囲気を出す男が男前と呼ばれている事も。子供とゴレンジャーシリーズの何とかレンジャーを見ていたら、レッド役が、なんだか中性的なんです。ゴレンジャーのレッドと言えば、頼りがいのありそうな男前が当たり前だったと思います。それが、あたりさわりのない態度を取るキャラがメインなんです。スーパーマンは、近いものがあったのですが、「押して忍ぶ」雰囲気であって、中性的とはまた違う雰囲気でした。やるときゃやるってとこは似てますが。話がまた飛びますが、今時の小学校って学級委員がいないらしいんです。皆、平等〜とか言ってるんですかね?・・・。ああ〜、僕はいつまでも流行の男前を否定できる新しい男前でいたい!(でも、ましゃは悔しいけどカッコいい。)
〜こんなことを考えた後日〜
僕の嫁さんに、「日本の住宅は男前だらけ論」を話したら、「なに言ってるの!日本のは男前じゃないでしょ。色も形もバラバラであっち向き、こっち向きして汚いじゃない。西洋の街並を見てご覧なさい。色や形や向きがそろっていて奇麗じゃない。福山雅治だらけで気持ち悪くなるはずがないっ!」と、一喝されました・・・。群として見るとは。視点が都市計画的。実際にローマや、その他色々な国に旅行に行ってるんですよね。僕は行った事がないのに・・・。でもねっ、福山雅治さんが沢山いて、「はいっ、皆さんこっち向いて〜」って言われて、向くと思います?ものわかりが良い男は、男前と呼べるのか?男前って、こだわりが強そうだべ?・・・って心の中で反論しました(笑)。
■やっと、コンセプトのお話
え〜っと、何の話でしたっけ?
あっ、そうそう、コーナータイトルのコンセプトでしたね。危うく忘れるところでした。(笑)
僕が建築系ラジオを聞いているシチュエーションはと言いますと、通勤中です。パソコンの前でかしこまって聞くというより、通勤し「ながら」聞いています。ipodから聴こえてくる建築系の方々は、人生経験でも、生き様でも、知識でも僕より何億倍上の存在の方々です。面識もない皆さんを直接友達とは、もちろん呼べませんが、いつも携えているipodから聴こえてくる「声」は、通勤途中の僕を楽しませ、励まし、退屈させません。
小学、中学、高校と、友達と一緒に通学したことがある人は多いと思います。そんな感じで、ipodから聴こえてくる「声」を友と呼ぶ事にしました(笑)。すごく人生の糧になる声は、友と言っても過言ではないかもしれません。実在の友達はいないのか?と突っ込まれそうですが、それはそれとして、声を発するipodを友と呼ぶ・・・それじゃ寂しすぎるので、声の存在そのものを「友」と呼ぶことにしました。ですから、タイトルは、「ラジオのお共」ではなく、「ラヂオは友」です。
ラジオって今ならまだレトロなイメージというかアナログで、放送局の周波数をダイヤルをまわして合わさなくてはいけないイメージがあって、奇麗な音ではないんだけど、安心するような懐かしいような言葉の響きがあります。ラジオの「ジ」が「ヂ」なのは、そんな古いイメージを想起させるような、あまりガツガツしていない雰囲気のブログにできたらいいなという気持ちがあって名付けました。あっ、でも、いちいちコメントするのって、ガツガツしてるってこと??
そんなわけで、タイトルの理由をこじつけてみました(笑)。
ぷふぁっ!息抜きになってないじゃん。長い。
それでは、このコーナーを最後まで読む暇がある、そこのあなたっ!
時間を惜しんで、建築系ラジオを聞きましょう(笑)。 ]]>
コメント:48C:村上兄ィの建築系人生相談「山田幸司」の感想です -[Lab]-
tag:architectural-radio.net,2010://2.4164
2010-12-29T13:00:00Z
2011-06-06T15:17:55Z
hitoshitakechi
ラジオから受ける印象では、まさかそんなことがあろうとは思いもよりませんでした。
それにしても、村上さんの鮮やかな分析、相変わらずの切れ味ですね。
医者か弁護士か建築家かで進路に悩んだというエピソードが思い出されます。瞬時に分析できる能力は建築活動にも多いに役立っていることでしょう。しかも、緊張されないと言います。しかも、声が良い。
実は、僕もあがり症です・・・。
文章では、ペチャクチャとよくしゃべりますが、人前だと、足がガクガク、目はうつろ、息苦しくなって、心臓がバクバクします。しかも、声が震えてきます(笑)。下唇がブルブル。そして、顔がタコのように真っ赤になります。どうしようもないくらいの、あがり症です。これは、遺伝でもあります。山田さんは、声が震えないので、まだ重症ではないですね。
村上さんの分析を聞いて、僕も当てはまることに気が付きました。必要以上に気にするんですよね。周りはどんな風にみているのだろうと気にしてます。気にしすぎて被害妄想気味です。山田さんとのあがり症の根源の違いを見てみると、僕は、山田さんのように、突然のハプニングに耐えることができません。
高校生の時にエレキギターをチューニングしていて、引っ張りすぎて弦が切れて、左手中指の第一関節の丁度、隙間のところに切れた弦が刺さったことがあります(笑)。丁度、関節のど真ん中だったせいか、痛みがあまり感じられなかったので、「見てみて、刺さった!」と自慢げに周りのメンバーに見せました(笑)。弦を引っ張ったら、なかなか硬くて抜けにくかったので焦りましたが、山田さんのように痛い目にあったにも関わらず、黙って処置することはできませんでした。さすが、男、山田幸司。男は黙って耐えるべきなんですね(笑)!
痛い目にあった時の対応方法は違うのですが、同じあがり症です・・・。僕も、「お選択」が必要です。そうですよね、他人の目を気にしても仕方がないですね。普段、マスコミの情報に囲まれて、それに頼って生活しているということも理由の一つでしょうか。あっ、いや、人のせいにしても・・・。遺伝だし(笑)。
あー、でも、良く効くおまじないってないのでしょうか。僕もいつか卒業すると思うのですけど、卒業プレゼンは尋常じゃない程に緊張するんでしょうね・・・。あー、他人の目が気になります。お〜、想像するだけで緊張してきました。ブルブル(笑)。その時は、山田さん、見守っていてください。いや、お会いしたこともないのに見守っていただこうというのはガツガツしてますね・・・。あがり症の山田さんにみられていると考えると余計にあがりそうですね・・・。
だれか〜、良く効くおまじないを、ぜひっ!
・関連項目
48C: 村上兄ィの建築系人生相談「山田幸司」 ]]>
コメント:平田晃久インタビュー「建築とはからまりしろをつくることである」の感想です -[radio]-
tag:architectural-radio.net,2010://2.4156
2010-12-03T13:00:00Z
2011-06-06T15:18:24Z
hitoshitakechi
どういうことか、分析するために(笑)、言葉を分解してみますと「からまる」と「しろ」になります。
■「からまる」
「からまる」から連想する形状を考えてみますと、壁のような面積が大きい断面をもつ形状よりも、小さな細い糸のような形状を思い起こせます。(中学生時代は、釣りにハマっていましたが、よくリールがバックラッシュ(ライントラブル)してました(笑)。)断面積の大きい形状でも長ければ、からまることはできますが、断面積が小さい形状を想像するとしっくりくる言葉です。
断面積が小さい形状を想起することから、向こう側が見えない、聞こえない、匂わないなど、自然界の中で本能的に機能する感覚が遮断されるような現代の高機密高断熱の壁や床ではなく、からまっている程度によって濃淡が生まれ、からまっている要素の向こう側が見えるし、聞こえるし、匂うし、五感が刺激されそうな、既存の壁ではないものを想像しました。
■「しろ」
そして「しろ」ですが、子供の雑誌の付録でよくみかけます。そうです、「のりしろ」ですね。この、「のりしろ」を想像すると「からまりしろ」の「しろ」が分かりやすいかもしれません。
「しろ」は決して主役ではなく、主役にとっても「しろ」は表立って大切な存在ではないんですよね。主役が持っている機能を果たすために、積極的に働いているわけではないのですが、しかし、「しろ」がないと主役の存在そのものを成り立たすことができません。
■「からまりしろ」がある建築は三枚目?
こうして考えてみると、「からまりしろ」がある建築とは、必要最低限に形状や機能を削ぎ落とした鋳型で成型されたような格好よい建築ではなくて、余裕があるというか、逆に余計なものを付け足した、楽しげな建築ではないかと想像します。表面的な装飾ではなくて、余白のようなものを足すことで、他者との新しい価値観が混在できるような建築です。他者が他人であるか、新しい家族関係であるのか、植物であるのかは分かりませんが、占有空間だけを集めてできていない空間です。ある関係の集合体を建築と呼んでいるとすれば、「からまりしろ」がある建築は、もっと別次元の関係も取込んだ建築と言えるでしょうか。
(むむ〜、わけがわからなくなってきたゾ。)
いや、この解釈が平田さんの同意を得るかは怪しいですが、いろんな人のいろんな解釈を生む問いかけが良いんですよね。
松田さんの解釈が分かりやすく、AとBの関係に置き換えると少し理解が深まったような気がしました。主従の関係ではなくて、互いに対等な関係、または許容し合う関係が生まれることで、すでにある存在(風、水)を受け入れられる建築ですね。領域を独り占めしない建築。
主従の関係を保つと、主の方に従が頼るわけですから、ある条件が満たされた時に限界があるはずですね。一方、対等の関係であれば、互いに拡張性を持ち続けられる可能性があって、互いの関係の持ち方によって常識の限界を越えることも起こりうる可能性が高まりますね。
■「からまりしろ」がある建築を受け入れる心構え
どうやら、閉じきってはいない建築のような雰囲気がありますね。今までの男前建築では、わがままを言いやすかった事が、「からまりしろ」がある建築では人間が「ほんの少し我慢する」とか、「ほんの少し許容する」ということも楽しみたくなるような建築ですね。
建築内なのに、風が心地よいとか、あそこに行きたいけど雨に濡れるとか、手を伸ばせばお隣さんから醤油を貸してもらえるとか(笑)。現代人の感覚では面倒だと思う手間が、逆にこちらから手をかけたくなるような、ウルウル目のチワワのような建築かなあ。
「ほんの少し我慢すると、得られる幸福あります。」っていうのが、「からまりしろ」がある建築の特徴かもしれませんよ。
・関連項目
せんだいスクール・オブ・デザイン03
平田晃久インタビュー「建築とはからまりしろをつくることである」 ]]>
コメント:「北川啓介のもうひとつの建築設計資料集成!円山町ラブホテルデート編」の感想です -[radio]-
tag:architectural-radio.net,2010://2.4145
2010-11-24T13:00:00Z
2011-06-06T15:18:47Z
hitoshitakechi
すごいドキドキしました(笑)。
まず、僕のような凡人はいかに常識に縛られて生きているかということにあらためて気付かされました。「ラブホテル」という言葉に抱いているイメージから、勝手に危ないコンテンツだと思い込んでしまいます。なぜか触れてはならない話題のような気がしてしまって。いや、確かに状況的には安心できないですね(笑)。
ところが、聞いてみてまたビックリ!教科書には決して載っていないラブホテルのノウハウが満載でした。深いですね。何事も。経営戦略から色彩の事、土地の歴史まで、あらためて建築の面白さを教えていただいた気がします。
そして、今回初めて気が付いたのですが、デートということもあるのでしょうか、ストーリー性を感じました。話の流れが物語のように感じました。例えば、子供と一緒に絵本を読んでいると、僕が読んでいる物語の前に、ページを開いた瞬間から子供達は、もうすでにそのページのポイントを押さえた絵を見ていることになります。先が分かってしまうというのが子供の理解を深めるのかもしれませんが、それと比べて音声だけですと順番に与えられた情報を、その順番通りに処理していくことになるので、「この先どうなるのだろう」という期待というか、同時に気持ちが進行していく感覚がありました。音声だけで聞いていると、北川さんのレクチャーの影に、男女の駆け引きがあるようでないような(笑)。それがドキドキの元ですね。北川さんがよほど信頼されているのか、それとも片田江さんのキモが座っているのか。(面白そうという発言は無防備すぎるような・・おじさんは心配。)
さて、円山町のイメージは行った事の無い僕には想像できませんが、地方のラブホテルは郊外にひっそりと建っていることが多いです。車でそのまま入って、だれにも会わずに、そして車で出ていく・・。人目を忍んで、こっそり入っていく感じですね。悪い事していないのに。パトカー見て息を殺してしまうのと同じでしょうか(笑)。かつては、人気の少ない場所だったのが、いつのまにか周辺が普通の建物でにぎやかになっているパターンもありますね。都会版のセオリーに従っていないので、今でも存続しているということは、競合相手がある一定の間隔を保っているからなのでしょうか。「なぜこんな場所に?」と思わせる土地の歴史を調べると、様々な人の想いが絡み合っていてその場所をつくっているのですね。常識的な目だけで見てしまうと、表層しか見えないので見逃してしまうことって多いんだなあと思いました。
お話の中にありました、ラブホテルで多いという事件。やっぱり地方でも同じ事件が起こっているようです。閉鎖的な空間に入ると、人は多小なりとも錯乱してしまうのでしょうか。ネットの匿名も同じようなものだと思います。欲望をさらけ出しやすいのでしょうかね。
カップルに幸福感を満喫してもらいたい(=高級感)のなら、もしかすると松田達さんの中庭のような概念を使えば閉鎖性がコントロールできるかもしれませんね。閉じていながら開けるという。屋外と通じる部分があれば閉鎖性をある程度保ちながら開放的な場所にできるかもしれません。ビルだから、ずらして中庭を積んで、そのズレで外からは見えないとか・・。音の問題をどうするかですね。経営者としては、やっぱりお客さんを詰め込みたいのかなあ。でも、事件が起こるのは嫌ですね。
次はインテリアですか?
ということは、・・・
え"〜!!
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ラヂオは友の
「でしゃばり目次」
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北川啓介の無批判的行動主義
北川啓介のもうひとつの建築設計資料集成!円山町ラブホテルデート編
00:00〜「ラブホ街の歴史をひも解くことから見えてくること」
01:56〜「あるものの需要によって」
02:30〜「国策と村人」
03:42〜「人々の町起こしの歴史」
05:35〜「ホテル名と土地名の関係」
06:31〜「怨念?」
07:27〜「経済的なお話」
08:40〜「いよいよ!?」
10:17〜「材質について」
11:42〜「リフォーム手法について」
13:06〜「料金と至福の関係」
14:58〜「ラブホ業界の効果的な構成手法」
16:13〜「料金の動向について」
16:45〜「そんなものがあるんすか!?」
17:30〜「外観からその建物の歴史を読む」
18:03〜「色についての基本」
19:56〜「基準法との関係」
20:55〜「ラブホテルで起きやすい事件とは」
21:42〜「事件の調べ方」
23:25〜「ラブホテルのリノベーション」
24:32〜「雑多な建物や街をみること」
25:49〜「片田江さんの感想」
26:39〜「次回は・・・」
(全 27:18)
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コメント:「42C: 追悼 山田幸司「僕たちは、あの人の語りを決して忘れないだろう」の感想です -[Lab]-
tag:architectural-radio.net,2010://2.4137
2010-11-20T13:00:00Z
2011-06-06T15:19:11Z
hitoshitakechi
でも、恒川さんのエピソードは、笑いました。
4人姉妹の真ん中に山田さんが写っている写真の、山田さんの表情が見てみたいです(笑)。お通夜の夜に、本人がいないのに笑いが取れるのは、山田さんだけでしょう。
考えてみると、男の数え年で42歳というのは、厄年なんですね。そういうのと関連付けるのは、安易すぎて嫌なんですけど、亡くなってしまうと・・・。こたつ問題でいろんな人の念を一身に背負ってしまったのでしょうか。
天内さんがおっしゃっていた冥界ラジオ。科学の進歩で、本当に、あの世の存在を確認できて、しかも通信可能になったら、聞きたいですね。あの世から発信されるものは、お金は無関係でしょうから価値感の違う配信が聞けるかもしれません。
もし、山田さんが亡くなったことを隠して配信を続けていたら、僕たちリスナーは亡くなったことに気づかずに聞いていたかもしれません。まるで、冥界ラジオのように。そのくらいラジオの声は、身近に感じられます。
話が少し変りますが、「龍馬伝」を見始めました。妻が、福山雅治の大ファンなので(おぬしもかっ!)、一緒に見る事に。龍馬の写真を見ると、もてなさそうな顔なのに、モテモテだったとか。男女問わず好かれていたという点が山田さんとダブって見えました。(山田さんは男前ですよっ!)
共通点は、多分、話の面白さです。男女問わず好かれるためには、実力があって、しかも笑いがとれるユーモアを兼ね備えていないと無理だと思うのです。山田さんは、ロンドンでも話の輪の中心になっていたという話がありましたね。笑いは国境を超えるのですねっ!時代背景を見ても、世の中が変りそうな雰囲気もあって、山田さんは龍馬のような存在だと思いました。建築の話は難しくて、しかも深刻になりがちです。山田さんの語りは、建築界が良い意味で変っていくキッカケを作ったのではないかと思います。
第2期の新メンバーが気になります。
山田さんとは違った雰囲気を出して差異性をアピールしたいところですが、コアメンバーの、松田さん、南さん、五十嵐さんの雰囲気を思うと、もう少し笑いがほしいところです(すみませんっ)。
今までの出演者から予想していくと、次の方達が候補にあがります。
・堀井義博さん
分析力とまとめ方、プレゼンは説得力があって話に引き込まれます。簡潔なまとめが心地よい!山田さんについてのまとめも簡潔でした。映画の話も面白いです。
・北川啓介さん
ポスト山田さんの原石のような雰囲気は持っていますが、もう少しツッコミができる方が、他のメンバーと上手くいくと思います(笑)。松田さんがより輝いて見える(聴こえる)のは、山田さんのスキのないツッコミがあってこそ(笑)。
・村上心さん
頼れる兄貴な感じはとても良いのですが、ちょっとシブすぎな雰囲気です。おじさま好きの女性にモテモテな感じがします。
・宇野亨さん
やっぱり、シブすぎ系です。クールすぎるような。
・杉浦久子さん
女性メンバーとして最適でしょう。ゴレンジャーシリーズも女性が、今は二人いるようです。女性の存在が、価値感を普遍的なものにしそうですが、現在のような思い切った、クセのある配信がしにくくなるかもしれませんね。でも、南さんの突然のフリにも動揺なく、完璧に仕切れるのはすばらしかったです。
(41Bの配信より。)
・彦坂尚嘉さん
豊富な知識と、熱い行動力、自信に満ちた侍のようです。建築系と美術系という垣根を超えた新しい建築系ラジオに生まれ変らせていただけるような感じを受けます。ただ、侍だけに、話が堅くなりすぎてしまうような気が。
・五十嵐淳さん
実力派なのに、ラジオから受け取る雰囲気は、冷めてもなく、熱すぎず、女性にモテるのはもちろんの事、男性からも好かれそうな雰囲気を感じました。なんだか好印象です。力みすぎていない(ように聴こえる)ところは、山田さんに通じるものを感じます。ただ単に、飲み会の席だったからでしょうか(笑)。
・タモリさん
「ブラタモリ」、面白いです。坂道好きですよね。『建築雑誌2009.10号』を買いました(笑)。でも、ラジオに出演して頂けるかどうか・・・。
僕のツボで考えると、上記のメンバーが好みですが、もう第2期のメンバーは決まったのですよね?個人でみれば、どの方も魅力的なのですが、第1期メンバーとのからみを考えると、五十嵐淳さんはどうでしょうか?北海道ですが、収録は東京に限っていないようですし、スカイプもありますし。
もしかして、ゴレンジャーと数を合わせて、二人追加とか。妄想が膨らみますねっ!ユーモアは必要だと思います。1/18日が楽しみです。配信はいつ頃でしょうか。
山田さんの肉体はなくなりましたが、精神は引き継いでいけたらなと思います。(ラジオから読み取ることしかできませんが。)次期ラジオのさらなる発展と、皆さんのますますの御健勝をお祈りしています!
(思ひ出のコメントー初出:2010.1.11)
・関連項目
42C: 追悼 山田幸司「僕たちは、あの人の語りを決して忘れないだろう」 ]]>
コメント:「伊東豊雄「消費の海に浸らずして新しい建築はない」(1989)を読む」の感想です -[radio]-
tag:architectural-radio.net,2010://2.4136
2010-11-17T13:00:00Z
2011-06-06T15:19:37Z
hitoshitakechi
さて、建築が消費されているということはどういうことを言うのでしょう。
単純に考えれば、使い捨ての建築ということでしょうけれども、使用サイクルの長短だけでは語れないものがありますね。なぜそうなったのかを考える必要がありそうです。
大方の動物は、巣が必要で自ら巣作りをしますよね。かつての日本でも、近所の人達が手伝って茅葺き屋根を葺き替えたり、米ぬかで柱を磨いたり、専門業者に頼まなくても自らの手によってメンテナンスしていた時代もありました。うちのばあちゃんだって、じいちゃんが動いてくれないから(苦笑)自分で平屋の屋根瓦を葺き替えていたそうです。
建築が消費されるという状態に陥ったのは、どうも、お金と引き換えに建物のメンテナンスなりをやってもらおうという発想が出て来てからのように思います。
やっぱり、愛着があるかないかは大きいですよ。住居に対して車に抱く程の愛着って皆さん持っているのでしょうか?僕らの若い時代(今も若いですけど・・)は、土足厳禁やってる奴がいましたからね。今の時代は、車にさえも興味がなくなっているようですけど・・。愛車といわれる存在の車なら、自らの手で洗車します。自らの手でメンテナンスすることにより、丁寧な仕事になり、車に愛着を持つようになりますよね。
例えば自らの住居を軽く扱ってしまうというのは、こだわりや愛着がない状態ということですよね。極端に言えば雨風をしのいで寝る場所があればいいという機能重視の考え方です。ついでにメンテナンスフリーへの憧れ。面倒な事はやりたくないですからね。メンテナンスをしたくなる車とメンテナンスを他人の手に委ねたくなる住居の違いは、個人の独占率とスケールでしょうか。例え愛着があるとしても、どこかのテレビで見た家を理想の家としてしまう。
住居は一般的には、買うものになってしまっていて、不具合が見つかったらクレームは言うがメンテナンスはしませんよね。メンテナンスができなくなっています。それが当たり前になっていますよね。気が付いたらお金を出すだけの人になっています。そうか、お金出してんだから、やってよという考え方になってしまいますもんね。感謝の気持ちも薄れてしまうのは仕方がないのかもしれません。
話題に出ていた、ショッピングモールを歩いている時の自分を思い返しても、自分の存在でさえ、まわりにいる人達に消費させるための雰囲気作りに気が付かないまま参加しています。
こんな事を考えながら、五十嵐さんの翻訳を聞くと、気になりますね。昔にすがりつかず、踊るだけではなくて、自分は消費されない。そして、消費の海の対岸まで泳ぎきった、さらにその先に行く。消費者として過ごして来た人間としては、すごく困難な事に思えて来ます。いや、実際に困難な事を伊東さんは成し遂げていますね。
(南さんが伊東さんから得たその方法をおっしゃっています。簡単な答えなんですが、簡単にできないです。気になる方は聞いてね。)
消費の海の向こう側って、建築のありかただけではたどり着けない気がするんです。人のつながり方も新しく提案し、実現できないとなにも変わらない気がします。それって、果たして建築の力、プログラムや間取りのようなものだけで実現可能なのでしょうか。限定された敷地内の閉じられた建物一つで完結するだけでは、なかなか難しそうです。建築の力かあ。建築の力ってどんなものがあるのでしょう。
未完成の建築ってパワーがありそうだと思いませんか?未完成の部分に他者が入り込める余地がある気がします。サグラダ・ファミリアではないですけど。
河川敷によくコンビニのゴミが落ちています。河川敷にゴミを捨てられるという感覚は、そこは自分の領域ではないという気持ちがあるからだと思うんです。きっと、外でゴミを散らかせる人でも、自分の家ではゴミ箱にきちんと捨てているのでしょう。自分の独占的な領域でない場所はどうでもいいという感覚ですね。
戸建てで売ったり買ってきた住居への感覚が、そうさせてしまうという可能性も否定できません。個人が愛着を持てる領域を増やさない限り、建築は消費される存在のままかもしれません。専門家が思っている程、建築によって違う存在感を感じ取れる人はそんなにいないでしょう。だからこそ、軽い建築でも平気で一生をかける程の高いお金をつぎ込めるのだと思います。僕も建築に興味を持つ前は、建築の存在は気にした事がありませんでした。安藤忠雄さんの存在さえも知りませんでした。今では美術館に行っても建築にばかり気が向かうので困りますけど・・。
それにしても、伊東さんの海に例える言い回しがいいですね。はっきりとは言わないことが、逆に何だろう?と読者は考えるようになります。俳句とか短歌とか川柳とか、日本の知的で繊細な文化と通じるところがあって、一流の人は何をやっても一流なんですね。
余談ですが、消費の海を泳ぎきろうという心意気は、泳ぎ方は違いますが藤村龍至さんと似ているような気もしました。目的地は似ているのかもしれませんね。
・関連項目
声に出して読みたい建築論
伊東豊雄「消費の海に浸らずして新しい建築はない」(1989)を読む [1/2]
伊東豊雄「消費の海に浸らずして新しい建築はない」(1989)を読む [2/2]
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コメント:「2010年9月号デザインレビュー(新建築)」の感想です -[radio]-
tag:architectural-radio.net,2010://2.4127
2010-11-08T13:00:00Z
2011-06-06T15:20:03Z
hitoshitakechi
■南研究室の建築デザインレビュー
いつも聞いてはいたのですが、レビュー対象の本を購入して、ラジオを聞きながら本を見るということをしたのは、今回が初めてでした。個人で「新建築」や「a+u」を買うと、高いですし本棚がすぐに埋まってしまうので、本屋で立ち読みして気に入った時に買う程度なんです。学校に行けば、毎月新しい本をそろえているのでお金をかけずに楽しめますね。学校が近い人がうらやましいですね。
本を見ながらラジオを聞くと、学生の皆さんと一緒に南さんのレクチャーを聞いているような、贅沢な時間にひたることができます。参加した学生さんの感想や、南さんのヒントを聞いていると、自分一人だけで発見したこと以外の内容に、「なるほど」とうなずいたり、それらが関連して、新しい発見ができたりと刺激されるコンテンツです。
南研究室では、収録の後に皆で聞き直して議論もするのだとか。配信された内容からさらに発展した議論が和気あいあいと繰り広げられている光景が目に浮かびます。
青春だな〜。
身近なリスナーどうしが議論して、批評が生まれて、それらが蓄積して、いつの日か建築系ラジオの全体討議なんかで生かされたりするのでしょう。そして、それぞれが社会に還元していく。つながってますね。
このコンテンツの面白さは、建築のレビューだけにとどまりません。南さんの「脱線」にも注目ですよね。「人間ってね・・」なんていう言葉も出てくるのですが、堅苦しく感じないトークで自然に聞き入ってしまいます。
■藤森さんの建築
藤森さんの建築はメルヘンチックというか、子供にも受けそうですよね。見るだけでも楽しい気分になってきます。藤森さんの著書も読みやすいですし、専門家でない方にも伝わりそうですよね。
入川亭は、目玉のおやじが出てきそうですね(笑)。
入川亭の入り口が面白く、梯子をわざわざかけないと上れなくなっています。カゴ状になっているので、にじり口のように低い姿勢で上らざるを得ません。茶室からは他の場所から見た景色と同じような景色が見えるのでしょうけれども、どうやってこの場所を決めたのかが気になります。敷地があってないような感じさえしますからね。
入川亭から降りる時は、誰かに「降ろして〜」と声をかけるのでしょうか。カゴを抜けて降りるとき、出生する姿を想像させます。簡単に行き来できないという条件が、茶室のかわいらしさと相反していて、余計に浮かんでいる感を強めていますね。
茶事は一人ではできないので、忘茶舟を含めた一連の流れが想定されているのですね。「忘茶」ですからね。
・・茶事のことを知らないまま感想を書くのは無謀です・・。こんなことなら山田さんと南さんの茶室レクチャーを聞いとけば良かった・・。この作品は台湾なので、台湾のお茶も知っていないとつくれないですね。
忘茶舟が入川亭に近づくことで、2つの茶室に関係性が生まれますね。茶事の余韻として、入川亭の存在が強調されます。竹やぶの中で浮かんでいるとはいえ、目立たない色や形をしていても、その茶室での体験が茶室の存在を引き立てそうですね。そうか、茶室が先に出来たのではなくて、茶事の余韻がカタチになっているのかもしれませんね。
一つの敷地内で計画されたそれぞれの空間は考え抜かれた結果、固定された関係になるのですが、自然の川の流れを空間の「間」に入れると、「偶然」を装った関係が生まれるんですね。湖の水量、手漕ぎの速さ、忘茶舟と入川亭との距離感。二つの茶室が複数の条件によって互いに見える角度がリアルタイムで変化するということ。同じ建築家がつくった空間が、一期一会の関係になりうるということに面白さを感じました。
そういえば、藤森さんの建築は、擬人的だなといつも感じます。
建築が生命を得て、動き出しそうなんです。友人に抱くような気軽さのようなものを持って建築を見れます。なんでしょう、藤森さんの手によってつくられているからでしょうか。一般的なコンクリートのようにきっちり「型取る」のではなく、「塗る」、「貼る」という行為でつくられているからでしょうか。「型取る」行為は両側から押さえますが、「塗る」、「貼る」行為は、片側が自由ですもんね。
僕も、お父さんの日曜大工程度に、子供と漆喰壁(漆喰もどきです)を塗ったり、台所に安物のフローリングをはったりしてますが、楽しいんですよね。木を切ったり削ったりするのが気持ちいいんですよ。やっぱり、からだ全体を動かすものづくりは楽しいですよね。その楽しさが、藤森さんの建築には宿っていて自然とにじみ出てしまうのでしょう。
・関連項目
2010年9月号デザインレビュー(新建築) ]]>